あの、夏の日 - とんでろ じいちゃん

『あの、夏の日 - とんでろ じいちゃん』

 『さびしんぼう』が恋の執着への始まりが表されるのなら、この作品は恋の決着が表されるようにも感ずられるものである。この作品は尾道の連作の終結にはまさにそれだというものがあった。我々はずっと恋のハナシを視せ聴かせられてきている。友だちとか皆で会ったときとかさ、コイバナ、盛り上がるものもあれば、一方的に聴かせられつまらないものもある。大林のテクストをよくよく考えるば、全てが恋バナなのである。ハナシなどどうでもよく映像的に彼自身が肩入れする大林のセンスであり、そのヘンテコ実験性どれもほとんど好きなセンスあらわされるが、恋のハナシ的には彼のハナシ、心から入るものもあれば、聴かせられてもどうでもいいものもある。とんでろ じいちゃんの恋も、薬指の指輪のように綺麗な玉虫も、宮崎あおいとの恋も、あまりピンとこないものである。されどそのとき想うのは、そのよく分からないことも時には大事であるということである。関係性に顕われるミステリアスなもの。

主人公のじいちゃんの燥ぐダンスはとてもよかった。世代を超え、とても男の子している。恋はミステリアス。好かれるときでも好きになるときでも、それが恋なのかどうか分からないときでも、出会ったあとの一緒にいた期間があってからの別れ、哀しみと込み上げるもの- それはなにか歓喜めいたものといえるものなのかもしれない が生まれる。主人公の少年とあの巨乳少女との駅でのシークエンスにそれを感じてくる。あのシーンとても微笑ましかったけれど、そもそもの出会いと別れとはとてもミステリアスなのだともフッと感じられた。友だち以上恋未満、でも限りなく恋に近いもの、知りながらも離れなければならない仮初めのもの、『転校生』のラストに表されるもの、ミストレスなミステリ。主人公のじいちゃんと宮崎あおいもあり、それがあるから見えてくる、しかしずっと現前しながらもなかなか見ようとはしない菅井きんとの間においても、メモリアルな気持ちは歴然としてあるのである。ミステリーは過去にも現在のときにおいても、恋として目の前にある。私たちはその場で、哀しみと歓喜を一緒に込み上げる。